芸術それ自体が至上目的になっている者は、

大概が(生物的観点からも)狂気だと思っている(笑)

 

人格形成過程で価値観がズレてしまったのだろう。

 

私の場合はこうだ

 

東京に生まれる、が、2歳に満たずに

当時最愛の祖父から引き離され関西に移住する。

見事に「あまり喋らずに、絵を描き続けては妄想にふける幼児」

が出来上がった!

 

幼稚園では予想通り「ジャイアン的ポジション」の餌食となり、

毎朝、通うのが嫌で嘔吐を繰り返すハメになる(笑)

その後、近隣で引っ越すのだが、阪神大震災にあう。

小学校に上がると見事に「別のジャイアン」の餌食となり、

更に登校班では上級生の毒牙にもかかりはじめる(爆)

親父には体育会系のスパルタで鍛えられた。

この頃には早くも「人は何故生きるのか」という哲学的思考が芽生えた(笑)

しかし高学年になると、突然ガタイが良くなり始め

少林寺拳法に通い始めたのもあり、

見事に表面上の人格と、内面にズレが生じるのであった(爆)

 

既に作曲を趣味にしていたが、10歳の頃にバッハに出会って心酔してしまい、

更にはMIDI打ち込み、ラジカセのテープ録音…

周りに聞いてもわからないことは図書館で調べ始めるという

「夢と希望が地獄へ真っ逆さまの芸術道ツアーへようこそ!」状態である(爆)

 

こうなると、もうとまらない。

どれだけ「お前には大した才能がない」「やめとけ」と言われても、

芸術を通して神の世界に触れることさえ出来れば良い

と考えているので、聞く耳持たずである(笑)

 

幸いにも人に恵まれたので、

機会を与えられここまで生き延びてきたが、

恐らく私は根本的に狂っている!

そして同志諸君、君たちも大概狂っているはずだ(笑)

 

さあ、各々が描く理想郷を目指し、いざ行かん!

例のシンフォニアはイメージ的には大体こんな感じになるだろう。多分。

これではよくわからんな。

大丈夫。私自身よくわかっとらん(爆)

「先生、芸術とはなんですか?」

「…電車でうんこもれそうになったとき、神に祈るだろう。そういうものだ」

「な…なるほど…?」

 

さて、いつもは敢えて、この手の話題は取り挙げないのだが、

ボカロにしても何にしても、

中央に「権威」や「神格化された人間」が出てきた時点で、

そこにはある種の国家(マーケット云々を含んだ大規模コミュニティ)

が築かれ、その他は排除される構造ができあがる。

 

これはおかしいことではなく、当然のことだ。

我々はそのように発展、繁栄してきたのだから。

 

そしてそこに異端が「これが真の芸術だ!」と挑もうとすれば、

いわば大砲を有した帝国に、竹槍で突っ込むようなものなので、

どうなるかはお察しの通りだ。

実際は多くの場合、単に無視されるだけだが(笑)

 

これはいつの時代も行われてきた営みで、

芸術に限らず言えることだろう。

音楽の歴史だけ鑑みても、このような事は何度あるかわからない。

 

よって私は半ば開き直っている。

ボカロによってより多くの層に広まったDTMに

商業が介入しないことを望んでいた層もいるようだが、

無理無理、こんな商売のチャンスに介入してこないわけがない(笑)

 

「私がやることはほぼ無意味だ!だが私は素晴らしいと思っている!

気に入ってくれる人は気に入ってくれれば良いし、

気に入らないという人は無視してくれても、攻撃してくれても一向にかまわない!」

くらいの心構えで活動を行うほうが、健全で楽しいぞ!

 

それに現代日本の商業音楽だって捨てたもんじゃない。

(…私自身、サウンドクリエイターとしては実用音楽の制作に携わっておりますし(笑)

例えば歌モノをみれば、確かに様式化されて

似たようなJロックテイスト音楽が多いが、

「何故に様式化されたのか」をはじめ、色々学べるところも多い。

かくいう私も色々盗んで、自分の様式に取り込んでいる(笑)

随分とボーカロイドという分野の可能性で遊ばせてもらったが、

とりあえず一通り試してみたい事はやったので、

シェーナで一時撤退する。

 

次はシンフォニアと題して、

大きく二部構成の比較大規模な

作品を構想している。

 

DTMによるオーケストラサウンドの、

より踏み込んだ探究が主な目的。

視覚表現も久々に自分で組み立て、

声の無い音楽劇動画のようなスタイルで

成立を目指しても良いかも知れない。

 

真面目に構築して

結果的にギャグになってしまわないように祈ろう。

いわゆる「神」が、人間によって文明を築く過程での

必要性(より大きなコミュニティを作るための)から

作られた想像上の存在であることは、

現代人ならば誰もが知っていることだが、

個人的には「絶対的な何か」は在るだろうとは考えている。

(神の存在証明等には触れない)

 

そして、大きく分けてふたつの可能性

我々は死後、無に帰すのか

(宇宙的な還元はおいといて、自我の喪失を以て無とする)

それとも先に続く何かがあるのか、

と考えるならば、

「先に続く何か」を想定して生涯を終えた方が

最終的に建設的なのではないか、と私は考えている。

 

何故かと言うと、例えばの話、

「無に帰す」と想定して生涯を終え、

先に続いていた場合、

ほぼ確実に次段階に進みづらいのに対して、

「先に続く何か」を想定しておけば、有利だろう。

 

仮に「先に続く何か」を想定した

精神鍛錬の生涯を送ったとして、

結果的に「無に帰す」事になったとする。

無に帰した場合は、それら苦労の記憶も

全て消え去っているだろうから、

全く問題ないだろう。

それにそれだけ鍛錬を重ねていれば、

受け入れるだろう。

 

まあ先に続く何かがあったとして、

そこで一旦記憶や精神もリセットされるなりの過程があると

話がややこしくなるので、ここでは触れんが、

先日書いたような私の無意味は、

基本的に神…「絶対的な何か」に捧げている。

 

一応付け加えておくが、

スピリチュアルとかそっち方面の話ではない(笑)

私はあくまで私なりの「リアル」でこの世を捉えたいだけだ。


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